30歳の苦悩と微かな光

頭の中を整理する為のブログ

自分という船の舵を握るのは自分

フラストレーション、ストレス、不安、不幸、不公平、不条理、妬み、恨み、苦しみ、やらせない、失望、裏切り、疲労

自由になりたい、楽になりたいと願うほどに囚われていくスパイラル。安心することが解決にならないけれど、自分の置かれた状況に悲嘆したくないと抗って、誘惑に負けて朽ち果てていく。そんな日々にうんざりして、希望も未来もなくなってしまったように錯覚して、もう何もかも嫌になる。

何をしてもどこに行ってもここは自分の居場所じゃない感じが拭えず、皆が自分の敵に思えて攻撃し、さらに孤立する。相手を認めて自分の弱さと向き合うことがどうしても許せなくて、いつだって心にはぽっかり穴が空いている。

もっと簡単に考え、行動すれば案外すんなりいくのに、わかっていても自我が邪魔をする。そうやって理想の自分とかけ離れた自分とを常に天秤にかけるように、自分の愚かさや欠点ばかりが露呈してしまう、日常に、世の中にもううんざりしている。

生まれた時って自分は何にでもなれると育てられたはずなのに、なんだか先細っていってるな。いつしかそれに気づいたら、そこから自分と自分の中の自分との折り合いをどうつけるか、どうやって機嫌をとるかってくだらないことに多くの時間と体力がさかれていく。

何があっても何をしてても自分の価値があがるわけではないし、違う人間になれるわけではないし、世の中の構造が変わるわけでもない。だとしたら、なんでこんな辛く、生産性のない日々を生きているんだろうって、悩むのも当然のことよ。そんな時どうするかって、選ばないといけないのも自分だ、なんて本当になんなんだろう。自分の生まれた意味とか人生の意味とか生きる意味とか、答えのないどうでもいいけれどかなり辛い問題を抱えてしまう。

幸せが足りないんだろうけど、それは自分で見つけていくか人に合わせるかしないといけないから、どっちもしたくなくなったら人の気持ちは落ちる。死を身近に感じて恐怖に苛まれる。それが生物としての人のさが。自分で探しても見つからないこともあるし、相手に求めても納得のいく答えが返ってくる保証もない。無難に日々を過ごし、根拠のない希望を持ってとりあえず休んで、また起きる。そんなことの先に何が待っているのか、本能的にわかっているけど正気で直視できる人なんてきっといないだろう。

生まれながらにして決まっているものへ、紆余曲折ありながら、人は進んでいってる。そうやって始まり終わる。そんな当たり前を幸せと思えるほうが狂気だと思う。

結局のところ、悩むことが多いのは自分を自分で操縦している感覚が乏しくて、受容的になってしまっているのかもしれない。もっと能動的に主体的に自分という船の舵取りができれば、自分を自分で認めることができるようになる。そのためには自分をまずよく観察すること、自分は何を考え、何をしているのか、客観的に捉えてみる。その客観性を元に自分を深く知ることで自分を理解することで、自分の思いに気づいていく。客観的な自分の情報が、主体的に生きていく鍵になるのだ。

パラレルワールド

同じものを見ても自分と他者では見える角度も感じ方も違う、という当たり前を痛感する日々。相手の反応に一喜一憂してしまうのは、心のどこかで自分の思いが最適解だと信じたい気持ちの現れだろう。その思いを裏切られたと勝手に解釈して感情が揺さぶられる。本当の意味で相手の立場で物事を考えることは、自分の思いを一旦しまいこみ考える作業であり、心底骨が折れる。そんな苦労も何かの役に立つとか、はっきりとした成果を持つものであるならば折り合いはつきやすが、現実にはそう易々とはいかない。一人一人の目論見のごく僅かな差異が徐々に大きな摩擦となり、それが破綻へとつながることも多いだろう。その緩衝となるのが、今の自分に課せられた役割。自分の思い、感情、プライドを一旦鎮め受け止める、という内的エネルギー消耗との闘い。表面化、言語化しづらい、可視化できないストレスは、何にも形容し難く、心にべっとりまとわりついてくる。寂しさや孤独を忘れさせるほどのインパクトを兼ね備えつつ、日常にしっかりはびこりじりじりと思考を侵食していく。この気持ち、他者と分かり合えたら少しは楽になるとは思うが、それもまた、他者への一方的な期待になりかね無いから注意。もういっそのこと、自分を含めた皆んなが宇宙人で色々な世界線から、たまたま一堂に会したと思えば腑に落ちることって、結構ある。

怯えと奇跡的な日常

自分の存在が霞む瞬間って、定期的に訪れる。とても不安で寂しくて、潰されそうになって誰かに何かに縋りつきたくなる。そうやって人間は助けを求め、自分以外の何かの存在により、自分の存在を自分自身を守り生きている。そんなんでも生きたいと思ってしまうのは、もうそれは理由もなくただそう決まっているのだ。きっとずっとずっと昔から人間はそうやって恐怖に怯えながら死んでいったんだろう。いつも当たり前にあるこの命や日常は、当たり前でも日常なんかじゃなく、本当に奇跡的で尊いもの。それに気づくのは振り返ってみることが必要で、不安と向き合う体力や余裕が必要になるから、なかなか気づくことができない。だから、厄介なんだ。恐怖を楽しむことなんて、本来できないし逆境に強くなるなんて、人間の生き方に反している。何度も何度も失敗して、怯えながら、試して負けて転んで、やっと昨日よりほんの少しだけマシな日を過ごすことができるんだ。地道で退屈な日々だけど、無駄な時間なんて、本当はないんだ。

今日の教訓

魔法の言葉を求めているのではなく、自分の存在を肯定する言葉が欲しいのだと思う。

ああでもないこうでもないと否定的に捉えてしまうのは、本当に自分を思って考えて、言葉に出しているのか不安なんだろう。

それなのに、相手側に非があるような物言いや考えに陥りやすいのが自分の弱点なのかもしれない。

偏屈な知識やアドバイスを求めている訳ではなく、ただ安心できる空間や捌け口が欲しいんだろうか。

自分にとってこの人はどこまで考えてくれているのか、どれだけ真摯に向き合ってくれているのかを見定めている、ということなのか。

それだけ信頼関係というのは不安定で曖昧で脆弱で繊細なものということ。

何気ない一つ一つの言葉が、その人にとって大きな意味を持つ可能性があることを忘れてはならない。

何を語るか、ではなく、これまでの道のりを労い、思いに寄り添うことでほんの少しでも、今の自分を肯定できる気持ちにさせる。それが唯一自分にできる役割なのかもしれない。

気づいて、幸せはもうそこにある

あなたは何をみているの、そして何を感じたの、それがあなたにとってどんな存在なの、自分が過ごしているこの時を、一つ一つそうやって考えて噛み締めていけたら、それが充実ってことになるのかな、自分の思い通りにいかない世界に嫌気がさすのは、自分を自分で認められていない証拠だ、人は自分ってなんなんだろう、どうして生きていかないといけないんだろう、幸せなことなんてない、生きていくのがつらいから消えてしまいたい、なんて言ってしまう、本当に大変だよ、生きていくのは、人として生きる、人以外の生を全うする、なんであれそれは大変なことだし、それは自分の力ではどうすることもできない、尊いものなんだ、時間を共有することも、同じ景色を見ることも、全部がかけがえのないことなんだ、今、自分を見て笑った人も、無視した人も、電車で立っている人を知らんぷりして座っている人も、怒鳴りつけてる人も、泣いている人も、みんな生きて、この時も生きることを続けている人なんだ、だからみんなえらい、そう、それに気づいたら、少しずつ自分を認められて、世界に、人に、自分に、少しずつ優しくなれる気がするんだ

自分をつかまえたい

家にいるのが、普通の顔してるのが辛い。

誰かと共有したくて、だけど深入りしたら

後戻りできないから躊躇して、また寂しい。

こうやって人は優しくなって

凝り固まって偏っていくのか。

何も知らないことが

どんなに恥ずかしくて誇らしいか。

そして、自分のことも知らない自分が

相手を知ることが

どんなに無謀なことか。

本当に何なんだろう。

逃避して慰め合うのはもうやめたい。

そうしないと生きていけない

自分は嫌だ。

 

ざわざわ

心がざわついてる。大切な人が、自分がいついなくなるか、来世はあるのか、やりたいことはないか、やり残したことはないか、今悩んでいることやつまづいてることが本当に大事なものなのか。誰もわからない、そして重なり合うことも、自分と同じ思いや視点を持つことも許されない世界で、何が幸せで不幸せで、そもそもそんなことが存在しているのかもわからない。頭を整理して、自分を見つめ直すのは辛い。何もできてないことを正当化しようと、日々必死に繕っている。自分の面倒もできないのに、人の面倒を見てるふりして心を疲弊させている。