30歳の苦悩と微かな光

頭の中を整理する為のブログ

自分とは何か

この問いに明確な答えを出せる者はいるだろうか。絶対的に自分は自分だ、と言えることなどあるのか。他者が存在することで自分の存在が認められるとするならば、自分の存在を認める絶対的条件は存在しないのではないか。

人間は全てにおいて、相対的な世界に支配されている。幸せか不幸かも相対的な感覚。産まれた瞬間から死ぬまで正確には孤独ではない。産まれる前と死んだ後の意識の所在はよくわからないが、あるとするならば、その期間に絶対的な幸せや自分の絶対的条件がある可能性はあると思う。

何故、自分とは何かという問いを持つのか。相対的な世界に生まれてしまった人間の宿命、あるいは進化の過程、種の保存法なのかもしれない。相対的な満足を追い求めていくと、そこに際限がないことに気付く。欲を満たし続けていくことを生きること、とするとそこに何の意味や価値もないとわかる。

そう考えると、人の幸せや自己同一性は、自分の意識の中にあるのだろうか。

 

何がしたいのかわからなくなったら

何がしたいのかわからない、という状況は不安を感じさせる。自分が自分で操作出来ない恐怖。先行きの見えない孤独感は耐え難い。心を病んでしまった時に特にこの疑問を抱えながら悶々としていた。

今でも明確な答えは見当たらない。

 

①寝床から動かない(何もしない)

ずっと、ベッドに居る。

せいぜい半日で我慢出来ない。

今まで何も考えずにやっていた行動(飯や排泄、風呂等)の必要性、重要性に気付く。やっぱり動物なんだと落胆すると同時に疎かにしてはいけない、と生活を見直すキッカケになる。体の健康があってこその心の健康と気付かされた。

 

②本やインターネットで調べる

思考力を得た人間が現代を生きていく中で悩みを持つのは必然といえる。自分と同じような悩みを持つ人の存在は本当に窮地に立たされている人にとって少しでも安心し、羽を休める事が出来るオアシスである。反面そういった情報により

傷の舐め合い、群れることで安心してしまう危険性、所詮、他人の方法論でありそれなりの解釈が必要になることもあり注意したいが参考になるかもしれない。

 

③仕事を辞めてみる

環境を変えてしまうのが手っ取り早い。

(自分の場合、体が拒否反応を起こしたのだが…。)

あらゆる執着は迷いや思い込みを生み、それが障壁となることが多い。だが生きる為にはどうにかして金を稼いでいくしかないが…。

 

④誰も知らない環境に飛び込んでみる

今までの常識や習慣を見直すキッカケに。新たな出会いや発見がある。

 

⑤とことん考え抜く

環境を変えても自分が変わる保証はない。思考を変える事が出来れば自ずと行動も変容する。考え抜いた結果、何事も兎に角自分が気持ちいいと思うこと(本能的に欲していること)を実践していくに限る。些細なことからで良い。生理的欲求はこれを実践しやすい。ご飯を食べる、トイレにいく、寝る。これを自分の気持ちいいと思うタイミングで行う。身近な至福である。現状それが難しいのであれば少しずつ改善していく。人生はそんなことの積み重ねになるような気がする。

 

⑥旅に出る

悩むことは苦痛だ。どうせ悩むなら、一人で悩んでも良いが、皆に迷惑をかけてみるのも有りかもしれない。見知らぬ人は所詮見知らぬ人であるが、こちらが無抵抗と分かると親切にしてくれることも有る。自分ひとりでは何もできないと腹を括れば生きる為に眠っていた活力が出てくるかもしれない。

 

人は孤独だ。

苦しみや悲しみを抱えている。

悩むことは生きる活力を目醒めさせる行為だ。

悩むことを辞めてはいけない。

 

 

 

 

 

 

生きていくために大事な事

人は生きている間ずっと考える。

このままで良いのかと。

明確な答えが出ることはほとんどない。

この道は正しいのか、

この先どうなっていくのか、

このまま死んでしまうのか、

自問自答の日々である。

人生とは不安との共生である。

不安でいるのは苦痛。

生きること自体が苦痛なのだ。

その和らげる特効薬は

ー信念ーではないか。

自分の考え、行動に一本、

柱を立ててやる。

不安になる根源の一つは

自分自身の存在を見失うこと。

自分は自分であると常に感じながら

生きることが出来るなら

どのような生涯を送ったとしても

自信を持って

生きている

生き抜いた

と、その人は微笑むだろう。