31歳、苦悩と微かな光

頭の中を整理する為のブログ

何かを悟った日

朝は憂鬱だけど、あの頃(2016年頃)は特に憂鬱だった。というか恐怖だった。仕事から帰り、食いたくもない飯で腹を満たし、タバコの煙を嫌になるまで吸い込んで、その煙をまといながら布団に入る。起きたくない、けれども眠りたい、そんな感覚。頭の中を何かで霞ませ思考を停止させないと、どんどん妄想が膨らんだり、起きたことをどうしようもなく振り返ってしまう。自分を非難してしぼんでいく、その繰り返し。今考えばその頃、寝つきは良かった。心の疲れが体にきてくれたからなのか、眠りは深かった。自分でも、体が悲鳴をあげていることはわかっていた。だけど、やめられない、抜け出せない。自分の思考を停止させる方法がそれしかなかった。仕事にプライベートに悩まされていた。今考えれば、本当にくだらないことだったのかもしれない。だが、運命なんてほんの一瞬で右往左往する。1月10日もそうだった。この日々はいつまで続くんだろう、どうしたらいいかなんて考えることもなく、ただ受け止めようとしていたのかもしれない。ギリギリまで眠っていたくて、7時20分にアラームをかけていた。目を覚ましたのは6時40分。トントン、トントン。母親がドアをノックする音。この音が本当に、本当に嫌いだった。この音を合図に、現実(本当は現実とは思っていないが)に引き戻されるからだ。本当に恐怖だった。毎回、この音を聞いた瞬間にビクッと起き上がっていた。実家は楽より苦の方が多い。でも一番辛いのは自分一人で生活できないでいる自分の弱さを知ることなのかもしれない。今朝はやけにうるさい。いつもなら二度寝、三度寝、四度寝くらいも余裕なのにうるさい、今日は。自分の部屋ではない、隣の部屋だ。兄さんの部屋。5つ離れた兄さん。クソ真面目な兄さん。運動神経抜群の兄さん。唯一心の内を明かせた兄さん。兄さんと一緒に色々した。釣りにテニスにゲーム、ダーツ…買い物もした。一緒に暮らしてたこともある。兄さんちで吸うタバコの旨さ。米の炊き方も兄さんから教わった。大学があるのに、早起きして朝ご飯に、炊きたての米と味噌汁、漬物を出して、俺を起こしてくれた。塩っ辛い味噌汁に硬めの白い米が最高だった。優しかった。兄さんはいつでも俺のそばにある目標だった。ウインドサーフィンをやったのも海が好きになったのも兄さんだ。海に近い街が好きになったのも兄さんだ。兄さんは本当に最高の兄貴だ。兄さんはノックに応じない。いつもなら声も出すのに、今日はいくらノックしてもなし。母親はせわしない。今日で部屋の明かりが点きっぱなしで3日目だそうだった。3日前といえば、親戚が来て宴会していた日だ。兄さんはいつも通り反応もなく、部屋から出てこない。あの日、兄さんは何を考えていたんだろうか。反応がない、おかしい何かが。母親がノックを続けていた。俺も気になって仕方なく起きる。そして、兄さんの部屋をノックする母親のもとへ。”○○(兄さんの名前)”、トントン。”○○”、トントン。父親も様子を見に起きてくる。ドアには鍵がかかっている。いつからか鍵を取り付け、かけるようになっていた。ロフトの障子から中へ入ろう。父親が納戸への階段を使って、障子に手をかけて部屋へ入っていく。兄さんの部屋へ。ロフトにしかれている布団には兄さんの姿はないみたい。”布団にはいないな、○○!”。そこから、ゆっくり部屋の階段を降りると、父親の大きい声が響いた。”○○っ、○○っ”。ドアの前に居た母親と俺は思わずドアノブに手をかける。ガタガタとドアを開けようとするが鍵がかかっている。蹴破ろうと体当たりした。ドアがバタンと開いた。目に飛び込んだのは、兄さんを抱き抱えて叫ぶ父親だった。それと同時に後ろからも母親の悲鳴が耳に突き刺さる。状況が掴めなかった。声もあがらなかった。ただそこには青ざめた兄さんが居た。眉間にシワを寄せ、口は半開きで、紫色の舌が出ていた。苦しそうだが、どこか安らかな表情だった。抱き抱えていた父親に近づき自分も一緒になって、兄さんを抱いた。冷えたカチカチの体だった。足はつま先までピンと伸びていた。ピクリとも動かない。叫ぶ父親と、ただただ壁に額をつけている母親。首にかかっているヒモを切ってやりたくて、ハサミを取りにいった。それで、首に食い込んでいるヒモを切ろうと思った。ビニール紐が何重にも巻かれていた。細いヒモが食い込んで首が3層くらいに盛り上がったりしぼんだりしていた。何とかヒモを切った。父親が兄さんを床に横たわせる。ガスコンロ、鍋、紙くず、ペットボトルなんかが散らばり、フローリングが見えなかった。父親は横たわった兄さんの頬をはたく。”○○っ、○○っ、おい、起きろよーっ、おーい”。反応はない。自分は何でか冷静だった。兄さんの瞳孔を確認していた。半目になっていた兄さんの目を開くと、半透明の膜みたいのがあった。瞳孔は完全に散大し固定していた。父親は泣きながら叫びながら、兄さんの胸を押し始めた。”○○、起きろ、目覚ませよ、○○”。口からひゅー、ひゅーっと音がする。ただただ空気が出入りするだけの音。自分の毛布を取りに部屋に走った。それを兄さんにかけて、手を握った。自分の手はこんなにあったかいんだって思った。それから救急車と警察に連絡した。誰に言われたか忘れたけど。兄が首を吊って…。住所…。兄さんが首を吊ったことと住所を伝えたことは覚えてる。父親は泣きながら母親に抱きつく。”死んじゃったよ、死んじゃったよ”と嘆く。母親は、ただ泣いている。婆ちゃんはよくわかっていなかったんだろう。その時は特に声を上げることもなく、泣くこともなかった。父親は婆ちゃんにひたすら謝った。”ごめんなー、ごめん”。”あなたがしっかりしないとどーすんのよ”、母親は父親に言い放つ。皆、目の前の状況にただただ困惑し、錯乱していた。そのうち、救急車と警察がきた。兄さんの部屋に横たわる父親。”おい親父、こっち”。バルコニーの前の床まで引きづり出した。ひたすら、ずっと、”死んじゃったよ、ごめんなー”、と言い続ける父親。本当に何が起きたのかわからなかったが、なんだかイライラして壁を殴った。痛みは感じなかった。それから、細かいことは覚えていないがとにかく父親が泣き叫んでいた覚えがある。いつも寡黙で冷静に物事を考える父親の取り乱した姿が、正直兄さんのことより驚いた。今まで自分の中に構築されていた父親像が根本から崩れ去った気がした。”こんな形で家を出て行くのかーっ!”と父親。実家に帰ってきて約1年半、部屋に引きこもって半年くらいか、兄さんが担架にのせられて家を出て行く。

何故なのか、それからずっと自分の心には、自分は家族の一員じゃないという思いが渦巻くようになった。何と言うか疑念が湧き始めたのだと思う。葬式で家族は兄さんの自殺を否定し続けた。早すぎる死、本当はもっと生きたかったんだ、ごめんな、ちくしょー。そんな家族や親戚の言葉が、兄さんの生き方を否定しているかのように聞こえた。物凄いショックだった。兄さんの死を肯定しないということは、兄さんの生き方を存在を否定したと同然だと。親にとって子供は自分の欲を満たす為の道具に過ぎないのか。悲しかった。家族は所詮、空間を共にしているだけの存在、もっと深いところで繋がっているはずと思っていたのはとんだ勘違い、何だか裏切られた感覚になっていった。誰も信用できない。人生、というか自分自身も、自分自身の思い込みだったんだ。それぞれの人にはそれぞれの人生があって、そこには何の関わりもないんだ、本当は。その時感じた、なんとも言えない心の喪失感は、言葉に出来なかった。自分は何てちっぽけで曖昧でか弱い存在なんだろう。世の中で起こっていること、空想、現実と思われていること、全てどうでもいい。というより、現実って何だ。正気な人間の思考が正気で精神病の人間が何故正気でないのか。何だかよくわからなくなっていった。自分の存在意義や、自分とは何かとか、生きる意味とか、そんなのは全部後付け。何の意味もないことを意味があるように思わせるように出来ているだけだ。人間が生物として生まれた宿命、生き残っていく(種の保存)、という宿命に立ち向かう方法として、苦しみを和らげ少しでも負担を減らそうとした結果なんだ。こんなに人口が増えなければもっとシンプルな生き方で終わっていたはずだ。こんなに頭を抱えて悩むこともなかった。賢くなればなるほど、どんどんドツボにはまっていく。そして、悩むことに恐怖を感じるのだ。悩み自殺することを悪とする風潮は何故か。何故、笑顔だと好印象で無表情だと負となるのか。そうして負を遠ざけたい思いは何なのか。人間の根本には生まれつき負のパワーがあることを無意識的に知っていて、負を避け生き延びようと、プログラミングされているのか。この世に意味などなければ、悩むことにすら意味はなくなる。