30歳の苦悩と微かな光

頭の中を整理する為のブログ

多分、躁鬱でした。

症状

一人で生きていけないとわかり悲嘆する。

全てに人間の手が加わっていることを嘆く。

人の視線が気になる。

自分の容姿が醜い。

鏡をよく見る。

頭がパンクする感じ。

光に敏感になる。

夜が落ち着く。

体臭が気になる。

風呂にやたら入りたい。

思考がまとまらず、結果何も考えたくなくなる。

生きる意味をひたすら考える。

相手の自分を嫌う素振りをすぐ見つけてしまう。

相手の機嫌を伺ってしまう。

特に近しい人間関係に嫌悪感、拒絶感があった。

悩むことが自分の生きがいとなっていた。

苦労をしている自負がり、陶酔し、周囲を見下していた。

自分の悩みは理解されないだろうと決めつけていた。

理解されたくないと思っていた。

自分の考えを見透かされるのを恐れていた。

抑うつ、強迫観念、被害妄想、連合弛緩、自己臭妄想、注察妄想、過小妄想、過大妄想、思考奪取

 


全部、自分の思い通りにいくという節があった。

何不自由なく育ってきた。

昨日まで自分中心で回っている世界が、幻想だと少しずつ気づいていく。

自分より能力が上の存在を目の当たりにし、自尊心が失われいく。

自分を構ってくれる、気にかけてくれる人が居ると信じ、

悲劇の主人公の如く嘆く日々。

同情してくれる人も居たが、自分を慰めたいだけという本性を知られると

優しかった人も瞬く間に消えていく。

誰しも、自分を癒してくれる人を求めるのだから仕方がない。

そうやって自己陶酔し、プライドと、凝り固まった思考、執着に取り憑かれた。

今思えば、その時優しくでも厳しくでも、

なんらかの関わりを持ってくれた人に救われた、と感じる。

一番怖いのは無視されること。

その時の自分は、ただ自分という存在を知りたかった。

醜くても惨めでも格好悪くても、

ただここにいるんだ、と感じたかった。

自分が存在しないということ以上の恐怖はあるだろうか。

だから死は怖いんだ。

死ぬことを恐れていたんじゃなく、

生きることを怖がっていた。

生きる、ここに存在する、という確信が欲しかった。

だから、周囲に助けられた。

自分で自分を確認するのは難しい。

 


僕は何をしたいのか。

自分の思った通りに行動したい。

思った通りにならなかったら

その結果を嘆くのでなく

自分の考えをそれに寄せれば良い。

いつも自分が大切。

それは無理に曲げることはない。

だからといって

事実をねじ曲げてまで

自分優先にするのは違う。

思い通りにいかない、

気持ちが上がらない、

そんな時に後悔したり

焦ったり、周囲のせいにしたり、

逃げてばかりではいけない。

自分をそれに順応させていく

行動をしなくてはならない。

常に一定でいつもそこに在ると信じ込んでいる自分は実は、

常に揺らぎ動き、定まらず漂って彷徨う気体のような曖昧な存在だろう。

だから、不安になって

何かに縋り付きたくなるし

生きる意味を探して

雲を掴むような思いもする。

それは当然だ。

逆にそう思うと楽に感じることも多い。

何にも縛られずに生きる、それがどれだけ幸せなことか。

何かに縛られる世界。

何かに属する世界。

何かに扮する人間。

飼い慣らされる人間。

そんな現実を幻想だと思いこむ人間。

人間を操っていると悦ぶ人間。

醜い人間同士の争いが

人間を歪ませ、心に垢がこびりつく。

 


そうではない。

 


人は人である。

人は生き物である。

人は清らかな心を持つ。

人の心は常に揺らぐ。

揺らぐ心を愛でる。

曖昧な存在を認める。

それだけで心は洗われ

落ち着いた境地に立てる。

 


迷っても良い、間違ってもいい。

それを認め、自分をそこへ持っていくこと。

受け入れがたい事実、出来事を、

素直に聞き入れる心。

 


いつも心にあるのは

素直であること

褒めること

気持ち良いこと

戒めること。