30歳の苦悩と微かな光

頭の中を整理する為のブログ

葛藤

人って不安や恐怖にとっても弱くて、それが何かを模索して、それっぽい答えに縋り付いて、束の間の安心を手に入れたがる。

不安や恐怖って生命を脅かすストレスだから、遠ざけようと必死に抗って、なんとか回避や逃避をしながら生きている。

疲れてしまうと抗うことが出来ず、不安や恐怖に支配されてしまい、体調にも異変をきたす。

それがちっぽけでも、人からしたらたいしたことのない不安や恐怖でも、その人にとっては生命の存続を脅かすものである。

不安や恐怖に敏感、鈍感、無関心、色々な人がいるけど、みんな必死に生を全うしようとする根っこを持っているんだと思う。

 

自分は今、葛藤している。

自分はどこか他人とは違っていて、斜め上の考えを持っていることに優越感を得て、社会の不平等さや貧富の差に蔑んだ視線を飛ばすことに、特別感や唯一無二の自分の存在価値を感じている。人とすれ違って視線が合えば、自分のことを好いているのではとテンションが上がる、かなり痛めの七夕野郎。痛いエピソードを痛いと感じることですら、自分の存在価値の高さを改めて認識する材料にしている。

自分のそんな価値観はどうやって出来たのか。非凡な人間への羨望と憎悪により、平凡な自分を脚色してしまう卑怯な性根からだろう。

そもそも存在価値を高めたいと思わせるのは何なんだろう。弱肉強食の世界、食物連鎖のより頂点に上り詰めたい、という野心と虚栄心のせいなのか。そもそも1人の人間の存在による変化の小ささがもたらした、壮大な勘違いなのかも知れない。そうやって、退屈でちっぽけな人生をあたかも意味のあるものに、唯一無二のものにするため、自分で自分自身を騙す手法として生まれたんだろうか。

そうやって人間はこの不条理な世界を、疑問はありつつ全否定することなく、ただなんとなくでなく使命や意義をみつけ生きることで、生命力を高め、生存競争に打ち勝ってきたんだろうか。だとすれば、世界に抗うことなくただなんとなく何の使命も意義も持たずに生きている奴は、淘汰される存在ということなのか。

 

このままなんとなく生きていくべきか、無理矢理にでも見つけるべきか、そもそも自分がそういう存在なのか、葛藤している。