30歳の苦悩と微かな光

頭の中を整理する為のブログ

本音と建前と諦めと受容

ここのところ経営者と出会う機会が多いが、人それぞれ土台は違えど似たような考えを持っていくものなのか。

互いに教え合いながらも、時折、一線を画すように足を踏み入れない瞬間がある。

みんな探り合って、信じられなくなったり、付き合い方をシフトしていったり。本音と建前で、情報の出し入れという面はとてもシビアだ。

金持ちになりたい、有名になりたい、自分の思いを叶えたい、そんな人の中で自分って何なんだろうとふと考えると、とことんこの世に未練や執着がないなと感じる。

そういう人は多分、相手に合わせたり、相手が望むような人を演じることで、その場を波風立たせず過ごすことを好むだろう。

自分の評価を気にしている裏側には、ある程度楽をして生活するにはどうすれば良いかを、自分の負担にならない程度に考えているんだと思う。

いうなれば怠け者でめんどくさがり。できることなら自分の思い通りにことが運べば良いが、そうならないし、そうさせるための地盤作りや環境を生み出すまでの能力もなければ、それに費やす体力もできるだけ使いたくない。

失望した、まではいかないかもしれないがそれに近い状態であると思われる。これまで、自分の思いとは裏腹に目の前の事象は動いていき、自分の意思ではどうにもならないことに直面し続けたことで、諦めという名の受容をしていかざるを得なかった。そうしなければ、生きていくことができなかったのかもしれない。

そう考えると、日々生きていること自体が辛く、また日々新たな諦めを積み重ねているのかもしれない。

きっと誰もがそうやって日々を過ごし、諦めながらでもその中で自分ができることは何か探して、頑張っているのだろう。

頑張ろうと思うけどできない、頑張ろうとも思わない、頑張ろうと思っていないけどある程度こなせてしまう、など、程度の差はあれ、生きていくことは日々時間を重ねていくことだ。昨日より今日、今日より明日、と時間は過ぎ終わりに近づいている。

少しでも良い思いをしたい、少しでも役に立ちたい、そうしたい人はすれば良い。

自分は何を思うだろう。